2019.4.3
第一夜への手紙
もうりひとみ
その樹はひとりで立っていて、
名前がつくのをきっと待っていた気がする。
不死鳥は、死なないでのはなくて、何度も生まれなおすのだと、言われたことがある。
ひとも何度も死ぬことができるのかもしれない。
アクロバティックな死と再生ではなく、それまでの自分をただ消滅させるのではなく。
色づいた葉を落とすこと、また芽吹かせること。
その言葉の、あいだ、あいだにある、夥しい数の、日々。
あたらしい生を生きなおす。
希望のような言葉を実現するその道は、絶対に平坦ではない。
あなたはどれだけの夜を過ごしたのだろうと、木漏れ日のような言葉を読み、想う。
はるかさんのレビュアーをさせていただくことになりました。
彼女と初めて言葉を交わしたのがいつだったか、正確にはもう思い出せません。
でもきっと、わたしはひとりで夜を過ごしていて、彼女も同じように、夜が明けるのを眺めていて、
随分長いことお互いに、夜の住人として眺めていたような気がします。
今回、住人と、その伴走者ですと、繋いでもらったメールを読みながら、
おかしなことかもしれないけれど、昼間の光の中で初めましてと握手をしたような気持ちになりました。
近づき過ぎないことを前提としたSNSで、
彼女の言葉にはいつも、どの媒体を通しても、紙にインクで書かれたさりげなさと、戸惑いと、確かさがあって、この連載が始まれば、それをまた読むことができるのだとうれしく思っています。
2019.4.10
第二夜への手紙
もうりひとみ
蚕を飼ったことがある。
教材として
教材として、小学校教師の親が育てていた。
生きているのを、毎日眺める。
「これが着物になるんだよ」と
何回聞いても、何回繭をほどいても、
ぴんとこない。
どれだけ多くの素材が発見されて、発明されても、
絹を取るためにあの白い生き物たちがいなくなることはない。
こんなに小さい身体が、桑の葉でいっぱいになるまでひたすら食べ、
糸をはく。
それを着る、ということの重みと覚悟。
糸を紡ぎ、糸を染め、糸を織る。
一枚の布が布として現れるまでの、長い旅。
どんな色になるのか、どんな布になるのかは、誰かの生き様のようにも思える。
たくさんの可能性の中から、色を決め、織りを決め、選んで行くこと、
その全ての過程で、思い通りにならず手を放し受け入れる瞬間が訪れること。
はるかさんが見せてくれた布、
ここに来るまでにどんな道を通ってきたのだろうなと思ったのだ。
この一枚にかかる時間と、手間と、わたしにはチラと想像することしかできない、水の冷たさや匂い。
軽やかな布地は、手の平でしっとりと重く、鈍く淡く光っていた。
2019.4.17
第三夜への手紙
もうりひとみ
信頼して通う先生がいる。
自分の望みや、生きられない生のこと、
数えてどうやら十年を越えた。
どうしようもないうねりの夜のことを話す。
「いつか、たったひとつのために生きたい」
と言った時に、それはとても、とても難しいことだねと、言った。
昔通った図書館で、一冊の絵本を見た。
言葉の説明は少なく、男がひとり、自分の三倍はあろうかと思える荷物を背にしている。
妻と子と暮らしながら、家の中でも荷は重く、とうとう家族を置いて家を出た。
荊が身を切る道に、とんでもない崖の道、人喰いの巨人や、誘惑の道などをひたすらに歩いて、旅の終わりに光を見たような記憶がある。
その何に魅かれたのかもう覚えていないけれど、わたしはそれをなんどもなんども読んだ。
その、道中の、大変な大変な道のりが、なぜ荷を下ろさないのかという問いかけが、決して幸福そうには見えない男が、不思議でたまらず、この話が本の終わりに終わるのも不思議だった(物語が終わる、というのはいまだに不思議に感じることの一つだけれど)。
随分後になってから、どうやらあれは信仰に関するものだった、というのを知った。
苦しみ、他の全てを置いて、ただ背負う。
つくること、日々の営み、祈り。救われるから、でもなく、何かを得る、ためでもなく、そうせざるをえない、「何か」。
ひとと交わり、穏やかに喜びを受け止める日々とは別に、
胸の中に丘があって、静かに深く青い火が燃えている。
これに出会ったことは、果たして幸福なのかと、ずっと思ってきたけれど、
これがなければ、わたしは多分生きていなかった。
業、と呼ばれたこともある、これは、いったい何だろうね。
「一度出会ってしまったらさいご、もう、戻れないとわかっているのにすすんでゆかずにはいられない道」
ああ、でもそうだもう立ち止まらずに、すすみたいや。
2019.4.24
第四夜への手紙
もうりひとみ
3歳になる姪がいて、ついこの間まで言葉がなかった。
話しかけるとにっこりと、天使のようにも、ある種の愛想笑いにも似た、穏やかな顔をしてよこす。
彼女には上に二人姉がいる。
上の娘さんたちは、三歳児の前でああでもないこうでもないと、しょっちゅう喧嘩のような声をだす。
そのあいま、合間に、二人が話すことについて、自分も、だの、それなら、だのと時々ほんの一言言葉を挟む。
「この子はどうやら聞いていないわけではないね」と、大人側はにこにこと眺めていた。
それが、先日三人を預かった際に、一変していた。
三人とも、一つの話題に同じだけの声と主張を張り上げて、三人とも対等に喧嘩する。
このこ、こんなに声がでる子だったの。
こんなにしかめつらして怒る子だったの。
上の姉たちに食ってかかり、それをやりたいのだと大声で。
天使のようだった娘さんは、言葉を得て、やっと望みを外に出せるようになったらしかった。
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歌ってみたり、知ってるよと知識を伝えてみたり、それはしたくないと自分の希望を口にする。
そこに意思がある。
言葉以前のものなのか、話しながら生まれるものなのか。
伝える/伝わってしまう相手がいる。
ここに在るものに、手触りと重みを持った確かさで、触れることができる。
わたしの意思が在る。望みが在る。伝えるあなたがいる。
逆もまた。
この事実は、わたしにとっては一つの祝福なのだ。
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はるかさんが出会ったように、わたしもこの人生で言葉に出会った。
その後出会っているものの名前をうまく見つけられなくて、なんと説明していいかわからないけれど、
これに生かされるのだろうと確かに触れているものがある。
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あなたは何に出会ったろう。
あるいは、何に出会えたらと思っているだろう。
安易には尋ねられないけれど、いつもひとに出逢うたび
胸の中で小さく、そんなことを思っているのです。
2019.5.1
第五夜への手紙
もうりひとみ
このひとだと思える誰かに、生きている時間の中でほんとうに出逢えるひとはどのくらいいるのだろう。
時にそれはとてもわかりやすい名前の関係を結ぶ相手ではないかもしれない。
生き物としての種を違えているかもしれない。
文字の向こう、違う時を生きていたかもしれない。
少し前に随分と落っこちてしまった夜に、妹がやってきて、
必ずその相手は存在するから大丈夫だとわたしに諭した。
もしかしたらとうの昔に会っていて、あのひとだったのかと何もかもが終る頃に気がつくこともあるだろう。
ペットや友人や、テレビの向こうの人だってありうる。
でもそのひとは必ず存在しているから、あんたは自分を生きてたらいいんよ。
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そのひとが存在する事実は、たとえばいつかそのひとを失っても決して変わらない。
睦じい誰かを眺めるたびに、郷愁のような想いを抱く。
同じ時に、意思を交わす手段を持って、互いに眼差しの先に立てることを、できればこうふくと呼びたい。
恋文と呼ぶには素直であたたかすぎる。二人踊る影を見たような気がする。
それがなぜかとても懐かしい。
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2019.5.8
第六夜への手紙
もうりひとみ
「どこかを目指している間だけわたしは、この世界のなにものからも守られた幸福な獣になったような気持ちでいられる。」
目指す場所は(たとえばそれが想像の中にしか存在しなくとも)、それだけで自分を守ってくれる。
どこかを目指す時の、意識の焦点が自分から逸れる感覚がすきだ。
どんどんとシンプルに、ただそこへたどり着く手段を考えるだけの生き物になっていく。
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かつて展示の予定を組むのには、そういう感覚が確かにあった。
その日が自分にとっての目的地。
作るもののことを考えていられる、そのものがわたしを守る装置。
意識が展示の予定の日から、作品そのものにシフトしてきて、
今はたどり着けるかどうかわからない旅先を手元に抱えているような、不思議な日々。
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幸福な獣は、「そこ」へ着地してしまったらどうなるのだろう。
そうか、だから、たどり着くことなくすごすごと引き返せることは、一つ、あなたを守る別の装置なのだろう。
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獣がたどり着けるのを望んでもいるし、獣になりきれず帰ってくるのを喜んでもいる。
おまえの幸福に近いものであれと願う。
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2019.5.15
第七夜への手紙
もうりひとみ
いつの頃からか、大きな負荷がかかると、足を止めるより先に身体のどこかに軽い痙攣が起こるようになった。
鬱症状の話をしに行った病院で、身体のことを話すと
「素直な身体ですね」と褒められた。
随分長い間、頭で制御してきた「休まないで頑張ること」について、とうとうこの身体は主導権を握ることを決意したらしい。
それ以降はなにがしかの判断の最後はいつも、この身体に問いかける。
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ここにいて心地よいか
もっと追い込んで作りきりたいか
目の前にいる誰かに合わせすぎていないか
「こうあるべきだ」と、誰も言葉にしないのにどこかに存在するような空気を読んだ気になって、
そうなれない自分をどんどん追い詰めていく。
その度に身体は、誰かの為でもなんでもなく、
居心地の良い場所で深く息をして
筆を掴む前に瞼を落とし眠らせて
誰もいない時に痙攣を起こして一人で過ごさせた。
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はるかさんの旅の話を最初に聞いた時、その景色を眺めたいと思った。
けれども今は、歩いた道のことよりも、その間の彼女の呼吸の音を思う。
遠くへ遠くへ行ってこそ繰り返された、対話のことを思う。
もしかするとその旅の中で、閃きのようになんども訪れた驚きの瞬間や、痛みや、
「ひと」という生き物について、わたしはつい「言葉」で輪郭を描いてしまうけれど、
眠りこそが、あなたという存在を確かにするのかもしれない。
「身体の可能性を封じこめてきたのは自分自身だったのかもしれない」
そしておそらくは、封じ込めてなお、身体は自由に開くのだと、わたしは思う。
その気づきの旅に連れ出したのも、誰あろう彼女自身なのだから。
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2019.5.22
第八夜への手紙
もうりひとみ
最初にどうも料理したらしい記憶は、
兄と妹と留守番をする家の中。
お昼ご飯をどうしようと、袋のラーメンを作り出して、目玉焼きを添えようとしたときのこと。
驚くほど焦がしてしまったのだった。
兄も妹も全くわたしを責めなかったし、食べられるところを探してどうにか口にしたけれど、
二人とも、何がいけなかったのか、わたしと同様わからない。
そのあと、父と母が作る朝ごはんの最中に、フライパンに水を入れて蓋をすることを初めて知った。
いつもかかっている味塩胡椒がどこに仕舞われているのかも。
目玉焼きを少し焦がしてしまうたび、そのときの兄妹の顔を思い出す。
料理こそ、記憶の織り込まれた最たるものだとずっと思っている。
味も匂いも、その人が食べてきたものとことの経験からしか生み出されない。
毎日何度もそれが必要とされる生活の中で、冷凍食品や出来合いのものがだめだよ
なんて言う気はひとかけらもないし、
例えばそれだって、「美味しい」と思い選ぶ理由が記憶のどこかに存在する。
「美味しい」は、過去の思い出せないほど細かな記憶のどこかから、やってきて
またそれが、今日全く今の瞬間の自分の身体や体調に左右されて、
難しい計算なく、ぽんと手のひらに生まれる。
誰かと比較する必要もないし、わけあっても分け合わなくても構わない。
奇跡のような体験だ。
台所に立って、思い出せない誰かの癖や、覚えていない誰かの注意を、ところどころ纏わせて
これから食べるものを作る。
そしてそれを口にする。
誰かにまた、記憶と共にその味を手渡す。
生きている間ずっと続く、ものを口にする行為。
誰かの、すきだった食べ物のことばかりを覚えているのは、きっとそうして、受け取ってきたからだろう。
どうしたってひとりになれない。
受け取って、織り上げて、また誰かに手渡して、
そう言う繰り返しが惜しげも無くそこかしこで。
知らない家の換気扇から懐かしいカレーの匂いがして、
日常と呼ばれるあちこちにあるそう言うもののことを思うたび、
うれしいとか、とてつもないとか、うまく言えない気持ちになって
わたしは胸がきゅうとするのです。
2019.5.29
第九夜への手紙
もうりひとみ
最後と言われて何を書くべきか悩んだことを、ようやく思い出した。
何を書いても同じところに辿り着くことがおかしくも、大きな発見のようにも感じられていた。
少し前の自分の曜日のこと。
最初にこの、連載のタイトルのような言葉を見たときに、
「そうか、ふたたびなのか」と、わたしはひとりごちていた。
ただのあたらしいではないのだ。すでに、経験として、それがふたたびであることを知っているのだ。
「ふたたびやってきた朝」なのか、「ふたたび生きて」いるのか、どちらもなのか。
朝は、長い間、苦しく恐ろしいものだった。
単純に、まだ眠い目を開けることがいやでたまらなかった朝も
うまく生きられなかった一日が終わりまた、やり過ごさなければならない一日が始まる絶望の朝も
朝は何もかもを新しくしてしまう。
もちろんそれにすくわれた日だって。
物事のほとんどに、呪いと祝福を見出すようになって、随分と気が楽になった。
消えない火も
誰かの美味しいも
くりかえす日々も
喜びだけを見出しては歩かれない道も
そのどちらもをわたしに与えてくれる。
いきる、ということにこたえを求めて擦り切れた夜もあるけれど
自分という生きものの輪郭を丁寧になぞるような彼女の言葉。
わたしもあなたが繰り返し灯すことをもう知っている。
誰もがはるかなみちをゆくいきもの
その姿が眩しくいとおしい。