第五夜
菜の花のような感情について
わたしにとっての彼は、夫であり、旧くからの友人であり、兄であり、父であり、母のようなひとで、幸運にもわたしが根を下ろした大地を耕してくれている。ともすれば、瑞々しすぎるこころを持ち、くちを引き結んだまま、水のように佇んでいるひと。
かれが、わらうような眩しいような顔をしてこちらをみるとき、薄紫の目をしているような気がする。
かつて、磨かれた授業をする教師でもあった彼。わたしが憶えているのは彼が最後に行った授業の、今となっては朧となってしまった印象だけだが、わかる、という感覚をはじめて手に入れた子供のようにうれしくなる、まるで朝がやってくるような授業であったように思う。
休みの日になると彼は、絵をよく描いている。鉛筆を動かして色をのせるときは、わたしと交差する眼差しとはちがうひかりを帯びたやさしい眼をしているのだろう。カメラの、透き通ったレンズを覗きこむときもまた、ちがう眼。一度もみたことがないけれど、過去にはピアノを弾いていたという。すべての、まなざされるものへと宿り、対峙してみたい気がするけれどなかなかに叶わない。
この頃は、毎日のように、出来上がったばかりの物語を抱え、彼の帰りを待っている。
階段を登る足音でもうわかるので、走っていってドアを開け、あまり部屋は明るくせずに、静かな目をみつめながら、彼のそばに立って、読み聞かせをする。ときどき、おどりも踊る。ふたり黙って、それぞれの方角を眺めながら、星と、星を擦りあわせるように話をする。彼の、ほんとうをひとかけ、分けてもらえるのでそっと抱えあげ、壊さないように気をつけて運ぶ。頰を寄せると、夕闇へと咲きかける花と夏草の香りがたつ、
わたしたちの関係に、名を与えることはいつでもむつかしい。彼のことを考えるときに降りこぼれるその感情はどこからやってくるのか、どこへ向かってゆくのか、これから変化していくのか、永遠を信じてもいいものかどうか、ぼんやりと決めあぐねている。それでも、たいせつに抽斗の中へ納め、時折、陽あたりのよい窓辺へと立てかけている。
年月が経ち、だんだんと輪郭がみえなくなってゆくわたしたちの記憶がたしかにある。はじめて一緒に見た菜の花のきいろを思い出すことはできるけれど、ことばや表情、訪れてきた場所、食事の味、香り、そのすべてを記憶し続けることはどうしてもできない。たとえ、写真を撮っていたって、どんどんと増え続けるフィルムを探し出せなくなってしまうように。目覚めたときになにか、たいせつなものをなくしてしまっているような不安に襲われる朝もあるけれど、彼のあたたかさだけでも、覚えていられるといい。
とおい、どこかへ出かけていって、彼の知らない、誰かに会うとしても、そしてどれだけ、時間がかかったとしても、わたしがどれだけ無謀な選択を選びとったとしても、いつでも、両の手をひらき見送ってくれ、帰りを待ってくれている彼は、たしかに、わたしと同じ感情を持った目でこちらを眺めている。
なにひとつとして、彼の与えてくれる以上のものを差し出すことはできないけれど、このひとがこの先も、どうかこうふくでありますように、とおもう。いつかねむりにつくときは、彼がそばにいるといいとおもう。