#08 Você é o que você come | ふたたび、あたらしい朝を生きることについて 

第八夜

Você é o que você come

Saudadeという葡萄牙語の感情は、不在、あるいは懐かしさにほろ苦さ、ひとひらの甘さをあらわすかたちをしている。

わたしにとってのその感情は、食事の記憶とも密接に結びついているように思う。

食べものたちは、血肉となってわたしのたましいに染み込んでしまっていて、プルーストが紅茶に浸してやわらかくして食んだマドレーヌではないけれど、さあ料理をしよう、とメニューを考えはじめたときに限って、かつて食べた味が、そこにいたひとびとの影が、わたしの前を通り過ぎてゆくのだ。往来を横切るように、何気ない顔をしながら。

毎日、学校帰りにホストマザーの会社に寄って待合室で本を読んだり、学校の宿題をしたり、外を歩くひとびとを眺めたりして過ごした年があった。彼女の仕事のあとは映画館に寄って、チップスを買ってもらい、分けあいながら映画を観ることもあった。チューリップがとてもすきなひとだったので、学校の隣のスーパーでチューリップの花束が安売りになっているのをみつけては手渡し、彼女は嬉しそうにおおきな花瓶に生けていた。わたしが入院したときは、自分の子供でもないのに、毎日欠かさず、仕事終わりに見舞いにきては林檎ジュースをコップに注いでくれた。それから体調を崩すときまって林檎ジュースが飲みたくなるようになった。学校帰り、週に一度くらいはきまって持ち帰りのインドカレーを一緒に買いにいった。退院してしばらくしてからもまた買いにいった。家の蛍光灯に照らされ、チープな容れ物のアルミがひかっていた。ナンはしなしなだったけれど、わすれられない味がした。

その国では、詩がすきなおじいさんとも喫茶店で仲良くなり、彼が好きな詩を英語で読んでもらい、わたしも日本語ですきな詩を読んできかせた。難しいことはことばにできなかったけれど、砂糖なしで飲む珈琲とチョコチップクッキーの組み合わせが美味しいことは彼に教えてもらった。住んでいる場所が変わって、以前ほどダウンタウンのその店に通えなくなってからも、時々思い出しては立ち寄るようにしていたけれど、図書館に置いてあった谷川俊太郎の詩をぎこちなく英語に訳し、書き直したノートの切れ端を渡したのを最後に、彼とはもう会うことはなかった。

この生で、束の間交差するあなたがたの、すきだった食べもののことばかりをなんだか、覚えている気がするし、きっとこれからもそうなのだろう。

わたしはわたしで、糸をたぐり寄せるように、開け方を忘れてしまった古い扉の鍵を回すように、そっと卵をかき混ぜたり、高いところから熱々のお茶を注いでみたり、鳥の手羽先を買ってきてクリームで煮こんだりと頭をひねりながら、なつかしい、記憶との追いかけっこを家のキッチンでしていようと思う。