#01 それから風のなかに芽吹くという祝福の兆し | ふたたび、あたらしい朝を生きることについて

第一夜

それから風のなかに芽吹くという祝福の兆し

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いきること、そのものを取り戻す瞬間が、

日常、或いは非日常のなかで突然に、音を立て奔流のようにこちらまでやってくることがある。

塩加減が程よく、すべすべとやわらかに仕上がったきんいろの湯気のオムレツへはじめのナイフと、フォークとのひとさしをいれくちびるへと運びこみ咀嚼するときや朝、目覚め思いついたままに音階を連ねた旋律を鼻歌交じりに口ずさむとき、あたかもその朝に生まれ落ちたかのように透き通った草はらを前に、いそいそと靴も靴下も脱ぎさって裸足の裏に感じながら歩くとき。

まだ高校生で異国であるカナダに暮らしていた時分、どうしても当時のホストと反りが合わず、クリスマスも別宅へ預けられ、途方に暮れていたわたしを自宅へと招いてくれた友人、彼女のお祖母さんが振る舞ってくれたほろほろの煮魚や、食べやすく一口大に切り揃えられた野菜のスープのよく八角が効いた風味、そして顔を包みこんだあたたかな湯気、自分にとって、たいせつな誰かと食事を共にするよろこびを思い出したあの昼下がり。

“Minha árvore”わたしの樹、と恩師が名付けた樹木に共に触れ、見事に染めあがった葉を拾いあげ目尻をくしゃくしゃにして彼がわらうのを眺めるときにも。

それは、等しくわたしの許へと降り注ぐので、きまって言葉を喪い、こうふくでわらいたくなってしまう。

いま思い返してみれば、いつもわたしはあたらしい生を生きなおすようにして、別の世界、異なる感覚を持った人びととの出会いによってあたらしく、ひらかれてゆくことで、まるで複数の生を行き来するように暮らしてきたように思う。

そして、それなしでは生きてゆかれないような行為 —会話をし、木々の中で風に触れながら歩いて土地を回り、手を動かしてものを作り、日々の糧となる食事をとり、日々の記録を書き、他のひとびとが残してきた言葉を読みほどくこと− のひとつ、ひとつにはいまにも、散れぢれになって駆けてゆきそうな粒子が隠されていてしずかに、陽だまりのように黙ってわたしを待っているような気がするのだ。

まばたきの間にも世界は変化し続けていて、その一片にわたしは、このゆびさきを触れさせたいのだと思う。