Nazaré

未完の海の記録|Nazaré

永久に、石畳とは親しくなれそうにもないスーツケースを追い立てるようにしてわたしは川沿い、勾配の急な坂道を駈けおりていった。じきに発車してしまうNazaré行きのバスへの乗車を目指していたのだ。

あまりに心許ない葡萄牙語で道を尋ねたためか、たどり着いた先には数日前に降りたったときそのままで佇む鉄道駅があった。気を取り直し、時刻表をなぞりながらこれから通り過ぎる駅、乗り換える駅、それからどこかで見たような駅を順々に指の腹で辿ることでもっともNazaréに近い街まで行く列車の切符を買い求めた。

列車が発車するとまだ、真新しい故郷の丘がだんだんと遠ざかって行く。

降りるべき駅の名を口中で幾度もころがす。

旅に出ることを決めたのは、その前夜のことだった。

思い描いていたよりも纏まった休暇がこれから先にやってこないこと、独りでこの国を見てまわりたいこと、街ではなくどこか、遠くへ出掛けてゆきたい思いにふいに襲われてしまったこと、いろいろと理由をつけながら、地図をシーツの上に広げてはパタパタとめくった。しかしほんとうは、誰の目もなく身ひとつで飛び出してゆけるこの身の幸福さを海へと、連れていって遣りたかったのだ。

じっさい、十月の葡萄牙は澄明に晴れ渡っていて、楽園のように美しかった。

家の前の坂を下りたり、登ったりするだけで川面はきらきらと夏をこぼし、坂の中腹ほどに立つ食料品店の軒先ではトマトが店主と共に陽を浴びていた。

赤茶けた屋根群を過ぎた途端、ひとの気配がほとんどない原野へと連れ出され、名も知らない花野とオリーブの樹とが揺らぎながら車窓を通り過ぎてゆく、なにもかもがあたらしく、自然にため息をこぼす。

隣席で新聞を読んでいた紳士と目があう、かるい会釈に挨拶を加えたことで知りあいになり、途中で手に入れた蜜柑を分けあいながら互いの身の上話などをした。

その間にもわたしは空いた指で、レシートやパンの袋を紙片にちぎっては鶴や菖蒲などを折り、窓枠や備えつけの机をいっぱいに埋めてゆく。近くの席の赤子が手を伸ばすのでひとつずつ握らせてやると同じ栗色の髪を透かした母親が笑みを零し、やさしい礼を贈ってくれる。

その日の宿はまだ決めていない、ひとめで心を奪われた海岸沿いのホステルの頁に折り目をつけて持ち歩いており、目的の街に着いたら走っていって聞いてみようと思っているのだと告げると少し驚いたようにゆるりと眉を持ち上げ、もう、泳ぎの季節は去っていったから心配はいらないと思うけれど、と前置きしたうえでもしも困ったならと彼が連絡先を書きつけてくれる。

目指していた駅に着く。バス停を探し、駅員室へ向かう途中に、名が呼ばれたような気がして振り返ると、先ほどの紳士と、彼にそっくりな目許をした姉妹とが笑って手を振り、海まで連れていってくれると言う。

丘を背に彼らの街とはまったくの反対側の海に向かって車が疾走する、大丈夫かしら、とひとりごちながら助手席のお姉さんが窓をあけはなつ、つよいみどりの草の匂いに混じって、駅から、外へ出たときには感じられなかった海の、匂いが鼻をくすぐる、伸ばしかけの髪が耳をくすぐっては離れてゆく、

やがて灼けるような石畳の上に車が停車する。

とてもうれしいのと、申し訳ないと思う気持ちとがない交ぜになってありがとう、ありがとうと言いながらせめてものお礼と残りの蜜柑を胸へ押しつけるようにして渡す。互いの、これからの幸運を扉越しにゆびを握り、頬を近づけることで祈り、別れを告げ車が、去ってゆくのを見送る。

風の方へ顔を向けると、はじめに旋回する鴎がみえた。

それから、坂の果てに海があるのをみた。

それがわたしと、大西洋との第一の邂逅であった。

色とりどりのパラソルやアイスクリンの売店、次々に浴びせかけられる宿への誘い文句や棗椰子、無花果に乾いた豆などの売り口上をくぐり抜け、スーツケースを抱きかかえるようにして坂を降りる、洗濯したてのタオルやシーツ、ストールが路地にはためくのを感じる、焦れば、焦るほど、近くに行こうとすればするほど、たしかに目にした海が遠ざかってゆくようで不安になってゆく、けれど、坂の下に一瞬白い砂浜が見えたかと思うと、絨毯を敷きつめたような海の、群青が一面にひろげられる。

幸福にぼうっとした頭で海岸沿いの遊歩道の上をゆく、横を向きながら前に歩いてゆくことは存外に難しいとおもう。

目当てとしていたホステルが砂浜通りの先へ見えてくる、飴色のフロントデスクで今夜、まだ空いている部屋はありますかとおそるおそる尋ねると、老紳士は微笑みを浮かべて頷き、つられて微笑んでしまってから、年季の入った鍵を受けとる。老紳士はそのままにこにことしながら、荷を階上の部屋へと運ぶのを手伝ってくれた。階段は緩く螺旋を描いており、わたしはつい手摺りを撫でてしまう。

階段を登り終えると屋根裏部屋のような、秘密の小部屋のような部屋に案内される、小花の散らされた瀟洒な寝床や洗面所を彩るAzulejoのタイルのうつくしさは勿論、わたしの心を捉えて離さなかったのは、海を宝石のように切り取ったその窓であった。

閂を外し、窓をあけはなちベッドに仰向けになってそのまま見上げると海と空とがすべてわたしのものとなるような心地がした、夜になると階下のレストランや街頭の灯りがきらきらと天井で踊るのにあわせ波が打ち寄せる音楽が室内を満たしてゆくのでわたしは海に抱かれるように真っ白なシーツへ潜りこむ、

螺旋を降り、海へ向かう。

海に面したレストランでは娘たちが次々とオレンジを絞りとりジュースを仕立てていた、グラスに入れられた雫を飲み干すと大陽がぬるく喉を降下してゆくような心地がする。

なだらかに、カーブを描く砂浜の白の上では、海水浴客らしい家族やサーフィンを楽しむひと、缶や紙屑を拾い集める掃除屋に混ざり、鮮やかなスカートや黒いスカートを揺らしながら日を浴びるおんなたちがいた。

重たい花弁のようなスカートはこの街の海風の所為か、しっとりと重たくなっているようだった。彼女らを眺めていると、秋によく馴染むわたしの姿が、この海には似つかわしくないように思われ、塩と砂のこびりついた露天のテントに並んでいる中でも色褪せることなく、不思議にこころを惹きつける紫のワンピースを求める。ホステルに戻って着替え、靴も靴下も置いてゆく、サンダル履きにして軽くなって出掛ける。

いつの間にか、海は夕暮れを呼んでいた、

膝をくすぐるスカートの紫に残り陽の下から燃えるように現れる夜と、海とのあわいとが混ざりあう、裸足になって砂に指を滑らせる、きしきしと付いたり離れたりしながら、わたしの足あとが砂浜に残されてゆく、風に砂が流れてゆき、ひとをあまり恐れないで鴎は群となって砂の上に留まり、夕暮れを眺めている。

だんだんと、昏やみがあたりを満たしてゆく。

遊歩道の街灯はあえかに震えるばかりでレストランのまわりだけが煌々と輝いてみえる、路地に入りこむとどこかの店かどこかの食卓の夕餉なのか茹でられた魚の湿った香りがする。鍋を頭に乗せて女たちが路地へと消えてゆく、ふいに視線を感じ、見上げると二階の窓を開けたばかりなのか、くらやみに混じって老女がしろい手をこちらに向かって振る、ロープウェーの近くにある店の人だかりに誘われるように赤い、テーブルクロスの敷かれた席に腰をかけ、あちらこちらで言を交わすさざめきに耳を傾ける。

トマトソースが熱いことも忘れ、貝と玉ねぎとをゆびが、ひたひたになるのも構わずにつまみあげ、目が詰まった小麦のパンでくちびるを拭うようにして食事をする、冷たい水を注いでくれた店員と、その恋人とが店の角でひととき抱擁を交わす、老人たちが鍋いっぱいのムール貝に歓声をあげ、ワインをこちらに掲げてくれるのを眺めながら夜を過ごす。

明日の夕刻は、この街を見下ろす高台まで登ってみようと思う。

美を愛することに野に出てて労働すること、それらはすべて、冬の朝に集積される|Castelo Branco・Monsanto