2026/7/26 夏の、盆踊りの夜の

この夏はじめの浴衣に袖を通し、一等すきな糸春雨塗り下駄を履いて盆踊りへ
路地奥に櫓が建つ、祇園祭の山鉾のようなぼんぼりにどこか懐かしいきもちを憶えながら道の奥へ、奥へと進んでゆく、近づくにつれだんだんと大きくなる太鼓の音、盆踊りの音、たまらず駆けだして輪に混ざる、まざる
底なしのあかるさ、このリズム、
ああ、お江戸にかえってきたのだとおもう
はじめは見様見真似でゆびを、腕をかたちどってみる、そのうちに足を揺らしたり身体を揺らすことができるようになる、音に乗る、ひとたび身体をひねれば夜に、炭坑に、お日様が照る
柳のようにやわらかな踊り、ちゃきちゃきとした踊りに日本舞踊の指先までなめらかな、そしてほとんどオリジン、けれど音楽にぴったり沿った不思議な踊りやおおよその気配だけをなぞるおおらかな、ゆたかな踊りたちに囲まれ、何周も何周も何周も踊っているうち、からだにリズムが、踊りが染みこんでゆくのがわかる
盆踊りのさなか、ほかの昏い路地から、老いも若いもすこしずつひとが輪に混ぜられ、ひとは増え、だれも彼もが輪郭を失い、そのうち死者も生者もみんなみんなで踊っているような気までしてくるのだ
2026/7/22 ホセ・ルイス・ゲリン監督『よき谷の物語』Historias del buen valle


ひとから、ひとへと譲られ別の土地に植えかえられるサトウキビ、マルメロやレモンといった思い出の木々を掘り返し、背に担ぎ丘を登ってゆくひとたちを眺めながら、むかし暮らしていた家のそばに長いこと人の手の入らない野原があったことや、朽ちてゆく作業小屋のそばには一本の梅の木があって、風が吹くとさやさやと竹林が揺れていたことを思いだしていた。
わたしの、心のなかにある小道にも、デイジーの花やその種が点々と蒔かれた。ときどきはそこでAdiós muchachosや愛の夢といった曲が奏でられ、ちかくの泉では冷たい水が湧くだろう。
跡形もなく失われるものと、けっして奪われず、失われないもの。
2026/7/22 ホセ・ルイス・ゲリン監督『シルビアのいる街で』DANS LA VILLE DE SYLVIA

誰かと話すとき、つい瞳を覗きこんでしまう。それぞれの、瞳の奥にあるみずうみが、揺れる感情がうつくしいのでそれらを眺めるのがすきなのだと思う。それでいて、眺められる側にまわると途端にどぎまぎし、目の前の机に置かれた水を飲むことくらいしかできなくなってしまう。だからわたしは、そばに座って、だれかと、だれかが話しているのをぼんやりと眺めているのがすきだ。
わずかなほほえみ、考えこんでいるような、なにかを思い出しているような、ひどく寂しそうな、濡れた瞳の、束の間交差する視線の、髪を拐ってゆく風に顔を寄せて囁きあうふたりの、道路の向こう側からやってきて、夕暮の光の中で立ち止まるひとの、画面外へ転がってゆくビンの、いつまでも続く音の、
ことばにも、絵にもけっして留めることのできない人間という魂のきらめき、微かな気配のようなものがただ静かに、すべての時間を満たしていた。こんな映画をずっと求めていた。
2026/7/10 ライターの相田冬二さんと学ぶ作文教室 at Alnwick books
参加するひとびとが紹介文を寄せた映画すべてを観て(未見のものもこの会の前には鑑賞し)、送られてきた文章を、コピー・ペーストするのではなく、自分の手でふたたびすべて打ち直すことでそのひとの思考の流れを追体験するようにしてから、相田さんは会に現れ、書き手として、読み手として、同じ映画の鑑賞者として、ときには参加者自身になりきるようにして、熱を余すことなくひとりひとりの紹介文をレビューしていく。
自分にとって大きな意味を持つ映画を観たとき、本を読んだとき、誰かと話をしたとき、どこかへ出掛けてゆき、なにか忘れられない経験をしたときでさえ、その瞬間は全身が燃えているかのように思考が巡っていたというのに、それらは時間とともに消え去り、いずれは記憶の底で眠りについてしまう。ことばを書くということは、その思考がまだあたたかいうちに残しておく、あるいは深く、眠りについた思考を揺りうごかすような行為なのだとおもう。
締め切りや、発表の場や、作りたいものがあるから、そしてそこに読み手がいるから、文章は生まれ、残ってゆくのだろう。
思考の断片をつなぎあわせ、ことばとして映画の紹介文をとどめておけることのしあわせ。
濱口竜介監督『急に具合が悪くなる』
社会で生きてゆくうちに摩耗し、すり減ってゆくことは当然のことだと思っていた。ただ日々をつづけているだけでも、ときどき、道の端にうずくまり、いつまでも眠りつづけていたい日がある。けれど、そんなことは間違っていて、他者にどれだけ魂のある存在として扱われたかったのか、他者を、魂のある存在として扱いたかったのかを思い出す映画だった。
まるでわたしがふれ、ふれられたような、わたしがみつめ、そしてみつけてもらったような気持ちでスクリーンを一心にみつめた。いまはもういなくなってしまったわたしの祖母の、やわらかくてあたたかく、すこし強引な掌をたしかに頬に感じた。
映画が終わったあと、近くに座っていた知らない他者と視線が交わった。わたしたちは互いにちいさくうなずき、席を立ち、外へと向かったのだった。
2026/6/29
岐阜・庭文庫 出野龍郎 展示「暗い部屋で光を見る」へ

Ⅰ 廊下の写真
はじめに一巡りしたとき、死者の眼からみえる世界とはこのような世界なのだろうかと思った。
わたしは死を、肉体に留められていたたましいのようなものはバラバラになって世界と溶けあい、自己と世界の境界がなくなるのではないかと考えている。そうなると肉体としての死を迎えたとき、わたしとは葉であり、同時に空気であり、海として存在しているような。
”死者の眼”と書いたけれど、もはや眼は無くなっているので、カメラオブスキュラの箱の中の壁にうつしだされた、そのばらばらに存在するたましいたちを印画紙に焼きつけ、目にみえる世界として発現させた、という言い方のほうがしっくりくるのかもしれない。生きているものは動いているので、この写真には写りこまない。唯一の例外として樹木だけがそこには存在し、その生命は発光し、写真のなかでぼうぼうと燃えさかっているような印象を受けた。まるで世界中の、無数のたましいが同時にそこに存在し、燃えさかっているかのように。
Ⅱ カメラオブスキュラの箱のなか
軽トラックに積まれた黒い箱がカメラオブスキュラと言って、真っ暗な部屋の壁に小さな穴をあけ、昼間、あかるい外にこの穴を向けると、外の風景が上下左右反転し、穴の反対側の壁に映るというものらしい。箱の中に腰かけると、はじめの10分ほどは暗闇なのでなにもみえないが、眼がそのくらやみに慣れてくると、だんだんと反転した外の風景が、正面の壁に浮かび上がってくる。たえまなく流れる星のように、昔みた、顕微鏡から覗いたシャーレの中を泳ぐ微生物たちの体内を流れる水のように、上方を流れ続けるものは外をゆく車の流れなのだとぼんやりと了解する。風に揺れる木々、大きな橋、そして川に空。モノクロフィルムのコマ送りや、影絵のように、刻一刻と変化し続ける外の風景が投影され続ける。現実世界がうつしだされているはずであるのに、刻一刻と変化する影たちはひとびとの雑踏にみえたり、遠近が揺らいだり、なんとかしてかたちとして、眼のうちにとどまろうとする。
夜、目を瞑ると、幾つもの支流のように、意識の底にものがたりが流れているような感覚がする。
夢を見ることは、それらの川のどれかにすべらかに溶けこむことのように思う。それらのものがたりは、眠るまではっきりとしたかたちを結ばず、ただ存在だけを感じるのだけど、もしもぼんやりとかたちを纏ったならこの、カメラオブスキュラ内部に投影された姿のようなものなのかもしれない、
2026/6/29

だれかがここにいない友人の名を呼ぶたび、
ひととき、空間がそのひとで満たされる
いなくなっても、たとえこの世でないところに行ってしまったとしても、そうやって生き続けることはしっていたけれど、
生きていてもなお、そうやってわたしたちは繰り返し名を呼び、たがいを生かし続けているようだ
2023/6/8
朗読の夕べ / しずかな火 終演に寄せて

ずいぶんと報告が遅くなりましたが、無事終演いたしました
たった一度きりの夜のために脚本を書き下ろしてくださったひとみさん
会場や撮影のご協力をいただきましたイルボンさん
お集まりくださったみなさま、ありがとうございました
四月のあの夜から、もうひと月も経つというのに、
ふれかけたものについて、うまく言いあらわすことができない
はじまるまえも 夜をおえたあとも 小鬼のことをよくかんがえている
あなたがものがたりを読む
わらいごえをあげる
黙ってくちをひきむすぶ
ともに苦しみ
轟々とながれてゆく
わたしもものがたりの声のかたちをとってあなたを呼ぶ
ひとつながりの、ばらばらの、欠片になって降るようにふたりの
それぞれのものがたりを、それぞれの詩、それぞれのことばたちを読む
こんこんと湧きつづける清水、叩きつけるように降る雨水のことをおもいだす
隣から聞こえるはずの
聞いているはずの声がひどく遠くから聞こえる
小さな石、幾千年も光を待つ岩のようにかたく
この星そのもののような声だとおもう
またあなたに、あなたがたに会えますように
2022/9/3

この土は火で、あの火は土 Water Soluble Oil Color 2022
染織りに明け暮れていると、色彩が身体のなかで燻ってゆくのがわかる
2022/5/23

隠された地図をなぞるように過去の図案を読みほどいていると、
閃光のように解が、そしてよろこびと、あこがれとがちいさく旋回するようにやってくることがある
2022/1/17

過去に読んだ書物の一節を憶えていて、自分のことばを交えながら話すことのできるひとにあこがれるように、まるでハンケチを翻すように鮮やかに、過去に観た映画の、たったひとつのシーンをおしえてくれるひとを眩しくおもう
かつて、呼吸も手放してスクリーンをみつめていたはずのわたしの、抽斗の底に残っているのはたしかに、ひかりをみたという記憶だけで、その、かすかな残響に耳を澄ますことしかできないのだから
2021/12/15
紙をさがす

なめらかで均質なものより耳がふかふかとしていたり、でこぼことしたもの、繊維が漉きこまれたり、あわく色づいていたり野趣に富んでいるものがすきだ、
手にとって鈍く真珠色にひかる紙に惹きこまれ、吐息をこぼしながら値をみると手の届かない、よいものであったりする
骨董市へゆき、古裂を眺めるときも惹かれるものはぼんやりとひかってみえる
まえは真贋が判らないため、入手を躊躇うこともしばしばだったが、琴線に触れたなら、それを手にとればよいと考えられるようになってきた気がする
いつくしまれ、ひとの手によって生みだされた物に宿るなにものかをうつくしいと信じる
民藝、ということばへの、わたしなりのひとつの返答がそれなのかもしれない
2021/12/7

On the way to school, I got beautiful crape myrtle branch from my neighbor.
朝、ゆきがけに分けていただいた百日紅の剪定枝
絢爛たる花の季節が終わり、ちいさな丸い実が鈴なりに
とおく離れた道端であっても、よく馴染んだ草木をみつけると声をあげてよろこびたくなってしまう
ひと枝もこぼさないようにそっと自転車を押す
そうして、わたしの内から、こぼれ落ちそうになっているものたちもそっと抱え、なんとか生を繋いでゆくのだ、
2021/10/21

薄野原をゆく、髪も呼気も、ゆびさきまですべて、この秋に染められていく
2021/8/17

はじめ思い浮かべた姿に向かって進んでゆくことと
すべてを即興でたゆたうように織ってゆくこと
先日展示した着物が前者なら、今回は後者の着物だ
わたしの着物、はわたし自身のたましいをかたちどるような行程だった
出来上がった着物が届いて、ふわりと肩から羽織ったとき、分身に守られているような感情が湧き上がった
或る親しい、だれかのための着物は織っているうちに、そのひとの姿や所作、眼差し、言語化するまえの感情が機のうえへ時々あらわれるので不思議だ
かつて、村々では農閑期に女たちが家族のために着物を織っていた生活があった
きっとそこにあった祈りのような感情、ひたひたとやってくるよろこびや哀しさもいまなら、ほんのすこしだけわかる気がする
まだ未知の、出会ったことのないあなたがたへの着物は、身にまとう衣服や布を織るときは、どのようなきもちを抱くのだろう
2021/3/4
さようなら、またいつか

この間、とてもすきだった野原が土の山になっているのをみた
日毎に草花が移り変わり、動いている庭そのもののような、うつくしい野原だった
越してきたはじめての日、曇り空の下でしずかに咲いていた梅の木の姿も、さやさやと揺れていた竹林も、
燃えるようにひかっていた春はもうどこにもないのだった
かなしみと諦念とが同時にやってきて、数日はカメラを向けることができなかった
うつくしくかけがえのないものは、自分の手で守るよりほかないのだと改めておもった
はじめて共に過ごした一年が、野原にとっては最後の一年だったことを知り、一枚一枚、在りし日の写真を眺めている
手元にはただ僅かこの野原から分けてもらった烏野豌豆の染め糸だけが残り、その糸を少しだけ与って作るわたしの着物が機にかかっている
2021/1/9
まふゆの、水は清く冷たいがこころはあかるい


夜叉五倍子の、どこまでも懐かしい金茶にいとかんばしき刈安のきんいろ
獣の毛並みのようだった糸がばらされ、どんどんと粒子になっていくさまをぼんやり眺める
雨、ひかり、すすき野原、降り落ちる花びらにまたたく走馬灯、そのどれでもなく、そのすべてでもあるよう
ひかり haruka nakamuraさんとLucaさんの未草のアルバムを聴きながら、部屋での作業を続けている
わたしが左手で糸を支え、右手で座車を回すときうまれてくる音とかれのピアノのペダルが踏まれる音、弦が擦れるときの音に彼女のささやき声との境界が薄れ、だんだんと混じりあってゆくような気がしたのだった
2020/12/9
この秋の、さまざまな瞬間を愛する




2020/11/16

ある夏の日、朝の陽が、大地の端端にそっと触れてゆくのをみた、
早苗も、わたしの額も、ふれられた場所から順々に淡く、発光してゆくようだった。
はじまりの布として、あまねくひかりさす布を、杼がふれ、通り過ぎるすべての場所にひかりが、色が射す布を織りたいと、そのとき思ったのだった。
初夏から、染めに明け暮れる日々が続き、そのなかですこしずつ染めていった梔子、茜、刈安、葛、玉葱そして山桜をつかった、
機のうえでは葛のやさしいさみどりが全体を貫くようにわたしを導き、梔子の黄がひかりそのものであることを知り、幾枚もの花びらがほころぶように、滲むように揺れる玉葱のやさしい赤茶を愛した。

昨日は、織りあがった布を森へ連れていった。
うまれたての布が枝垂れ桜の枝のうえで、風に吹かれるのをみて、ひどくこうふくだった。
明日からは大地を、足もとに限りなくひろがり、続いてゆくひかりの道の帯を織ろうと思っている。
2020/4/21
西の地へ

うつくしい地に越してきてから、一度目の春を迎えた。
わざわいが触れるすべての場所に出かけてゆき、肩に触れたり、ことばを交わすことのできないさびしさ、それに、機や、生糸に触れられないくるしさとはうらはらに、天を仰ぎたくなるくらいほがらかに、日を追うごとにこの地は祝福に満たされてゆくため、救われるように日々を暮らしている。
これまで、わたしにとっての風とは、海を、遥か隔てた土地から束の間やってきて、この身を攫ってゆくようにつよく吹きすさび、なつかしい潮の香だけを残してそのまま、去っていってしまうものだった。
けれど春のはじめ、ちかくの山へ行ったわたしは、鳥のはばたきもなく静まりかえった森の中で、まだちいさな、どこかあどけない風がとおりすぎた場所の葉々だけがそよぎ、枝も身をかしげ、道がつくられてゆくのを目にしたのだった。
それからは、隣家の庭に植えられた年老いた桜の樹の枝を、畑の隅で全身を揺らす菜の花を、ひかりと一体になって波打つ池の水面を、それから空き地で青々と茂る野の草花たちをかろやかに揺らし走ってゆく風をみるたび、その風が、かの山でうまれ、ここまでやってきたということを、やがてはこの地を、すみずみまで揺らし満たしてゆくことを思い浮かべている、